グー爺さんのカメラ日記思いついたら、時々更新

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一万石の城下町 12:01
 



 一万石の城下町

      画像は今年8月に取り集めていたものからです



 私が10〜18歳の間住み暮らした兵庫県小野市は、
 
 徳川氏の江戸幕府の頃は播磨の国小野藩一万石(当時の30ヶ村)の大名
 外様大名一柳氏の治める地で有ったらしいのです。
 

 そう言うことは聞かされていたけれどもあまり興味は無かった。
 
 つまり、幼弱ながらも自分の生活に追われてどうでもよいこと
 であると思っていたのであろうと思います。

 司馬遼太郎氏の「俄」という小説を読んだとき、
 幕末頃には浪速下番を言い下され大阪の警備役を務め、
 鳥羽伏見の戦陣には傭兵を用いて出陣したとのことで、
 ご苦労多かった事であろうと思ったものでした。



 小野小学校校門(陣屋入口付近)

小野小学校(陣屋入口)



 石碑(学び舎)

石碑(学び舎)



 校庭(陣屋跡)

校庭(陣屋跡)




 スナップ

スナップ


 今、学校は夏休み中です。

 一万石は大名としては一番小さく、
 未満は旗本として(譜代)分類されたものらしい。
 尤も旗本も5000石未満3000石未満など、
 役柄に制約が有ったようですね。

 小さい大名にはお城と言うものは無く、「陣屋」です。
 
 ここが陣屋の跡というわけ。

 ちなみにこの隣接に小野高等学校(我が母校です)が有るのですが、
 ここはかつては藩士の居住地で有ったそうでございます。




 磐台神社(一柳氏の氏神)

磐台神社(一柳氏の氏神)



 マップ

説明マップ
 
 




 小野市考古館 1

小野市考古館 1


考古館は小学校の敷地内に有り、小学校の講堂で有りましたそうな・・・
今は増築もあり、立派な市の資料館を務めておられる様子なので、
しばし(3時間ほど)見学させたいただきました。


  

 小野市考古館 2

小野市考古館 2



 小野市考古館 3

小野市考古館 3


 いろいろ資料やビデオなど拝見しましたが、
 近世頃から江戸時代に至る一柳氏の経緯は私の頭ではよく解らない。

 只、江戸時代には、歴代藩主は隔年に駿河下番(現静岡の駿河城を警護する)
 を命じられたらしい。
 そして幕末には、浪速下番。

 「それで下番を任命されたら大名さんは手当がついたものなのですかね?」
 「いやいや、すべて下命は大名の持ち出し(自弁)ですよ」
 「それならお金大変でしょう、たかが(失礼)一万石なら貯えが有るまいに、
  どうしたのでしょうね?」
 
 「とりあえず土地の豪商にすぐさま融資を求めたらしいですよ」

 館員さん(学芸員さんかな?)との会話です・・・



 考古館資料(出土品)

考古館資料(出土品)



 浄土寺のミニチュア

浄土寺のミニチュア



 甲冑

甲冑



 生活用品

生活用品


 今特別展示は「加古川線100年の歩み」を開催中でした。
 子供の時の、懐かしい風景が出てまいりました。

 

 加古川線機関車のミニチュア

機関車展示のミニチュア




 私にとっては懐かしくも新しい行いで有ったのでございます。
 ハイ!

 もっと詳しくと申されればそりゃ大分かかりますねぇー。



 
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大中遺跡 23:30



 大中(おおなか)遺跡

 −弥生後期の竪穴住居群ー

      画像は5月25日(土)のものです


 加古川で用事が終わったので帰り道に
 播磨町にある大中遺跡に寄ってみたのです。

 弥生時代後期(3世紀ごろ)の竪穴住居群が有ったとか,
 勿論,現在公園に設置されているかやぶきの住居は
 考証にしたがって復元されたものです。

 私はその筋の専門家では有りませんから
 「ほほぅー こんなところに住んでいたのか・・・」
 などとぼやーと見ているだけですから,
 ただ写真を羅列することにして,
 若干の説明は,案内板に頼ることにいたしましょう。


 復元された竪穴住居

 住居 1

住居 1


 住居 2

住居 2


 住居 3

住居 3


 住居 4

住居 4


 住居 5

住居 5


 住居の中側

 中側 1

中側 1


 中側 2

中側 2


 中側 3

中側 3


 骨組みなど

 骨組み

骨組み


 これは骨組みを見せてくれるためにこのようにしてあるのか,
 或いは痛んでこうなっているのか,よく解らないが・・・


 危険

危険


 案内板羅列

 家の形などの案内板

案内板;家の形など


 竪穴についての案内板

案内板;竪穴の


 竪穴跡

竪穴跡


 入口の形状などの案内板

案内板;入口などの


 入口 1

入口 1


 入口 2

入口 2


入口 3

入口 3


 大中公園地図

大中公園地図


 この公園には 「地元播磨町郷土資料館」 と 「兵庫県立考古博物館」 が有ります。
 あまり時間の余裕がないので,今日は地元に敬意を表し資料館へ・・・


 古い写真のコピー

古い写真のコピー


 展示の土器など 1

展示の土器など 1


 展示の土器など 2

展示の土器など 2


 小さな蛸壺

小さな蛸壺


 見かけ高さが12〜15cmくらいかな?


 石鏃(せきぞく;石で造ったやじり)

石鏃(せきぞく;石のやじり)


 ご飯 1

ご飯 1


 ご飯 2

ご飯 2


 ご飯 3

ご飯 3


 ちゃんと蛸まで有りまして・・・

 後は博物館のほうでコーヒー飲んで夕方までのんびりと・・・


 
・・・







 
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三木城開城と別所長治公 22:53
 

 最近読み続けている本の続巻(楊令伝;北方謙三著の9巻以降)を、インターネットの
 「カーリル」で検索したら、地元神戸市の12の図書館はすべて「貸し出し中」とあった。

 隣町三木市の図書館に「9巻;10巻貸し出し可」と出てきた。
 図書館の場所は三木城があった上の丸町と出ている。

 他にも佳いことありそうだ!
 カメラを携えて40分のドライブを楽しみながら飛んで行った。



 三木城開城と別所長治公
 

 三木図書館は城跡の広場にあります。
 早速目的の本を借りたあと、三木城跡の公園や、神社など散策いたしました。
 (埋蔵文化財館、堀光美術館などあいにくの休館日でアリャリャァーでした。)


三木図書館


 本丸跡の公園には、「三木合戦」の絵解き説明版(パネル)が28枚に亘って
 経緯;各地の合戦の模様が説明されています。
 そのうち6枚をご紹介いたします。


 
パネル三木城


 三木城は
 明応年間(1,492-1,501)室町時代の後期、東播磨8郡の守護代となった別所則治によって
 初期の築城がなされた。
 5代目城主長治の時、織田信長が家臣羽柴秀吉に攻めさせた。

 

パネル別所長治公


 現在本丸跡にある別所長治公の石像

本丸跡長治公石像


 三木城には野口城;神吉城;志方城;高砂城;別府城;船上城;端谷城;淡河城;阿形城・・・・・
 などなど30余の支城が有ったが、つぎつぎと攻め落とされ、
 ついには、1年10ケ月に亘る包囲〜篭城戦 いわゆる「三木の干殺し」 の壮絶な戦いとなる。


パネル平井山合戦


 
三木城から秀吉本陣平井山を望む
 向こうの山の真中辺りが平井山;現在山陽道が貫通している。


城壁から平井山を望む



 天正8年(1,580)1月17日の前日ついに別所長治は、 「勝ち目なし」 とみて
 我が一身および一族の命と引き換えに、将兵;領民の安堵を願って秀吉に降伏を申し入れる。
 
 秀吉はこれを諒とし城内へ酒肴を贈る。

秀吉の贈り物


 最後の酒宴

三木城内最後の晩餐


 本丸跡 別所長治公辞世
 「今はただうらみもあらじ諸人のいのちにかはる我身とおもへば」


別所長治辞世の歌


 別所長治公は、先代父公が若くに世を去ったので13歳で城主となり、
 自害の享年23歳であったと言う。


パネル切腹の場


 後記

 お城のイメージは多分三木合戦のころは、もっと質素な実践的砦風ではなかったでしょうか?
 秀吉の占領後、秀吉は家臣に管理させましたが、三木城を好んで手放さず
 しばしば有馬温泉へ通ったらしいと言う話ものこっている。
 「湯の山街道」は今でも有名。
 その間手が入ったとも考えられるし。

 お城は、関が原合戦の慶長5年(1,600)以降池田輝政が姫路城主となったその支城として残り
 ましたが、大阪夏の陣のあと一国一城の徳川幕府の政策で廃城となったらしいです。

 秀吉の占領後の城下町政策は、かなり優れたものであったらしい。
 三木市は、現在 金物;刃物;家庭や建築工具の特産地になっていますが、これは城下町の
 産業振興におおいに鍛冶屋を奨励した名残といわれています。

 三木合戦を詳しく研究している方の冊子など読んでみると、多分に「読み本」による伝承が
 多いので、講談的な面もあると述べておられる。
 例えば、「干殺し」に関しても別所氏の石高から考えて餓死するほどとは考えられないとか。
 篭城戦後、初めは城方攻勢で秀吉が逃げ回った場面とか、無かっただろうと思うとか。
 だから、「勝ち目無し」の戦略的判断の出来た時点の開城であろうではないか?とか。

 
ETCなどいろいろ学んで退城。 無責任だけれど。  おわり。
   

 
  
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明石郡衙の遺跡を垣間見る 22:47


 遺跡や名所旧跡を 観に行ったとします。

 私はズブの素人ですから 全く自分自身の興味本位で、 専門家が明らかにした歴史の断片を目の前にして、
 「その時代の、そこの人々の、その行いや成果、或いは生活などに 思いを馳せてみる」 ことが楽しみな訳なのです。

 例えば、「高松塚古墳を訪れた」とか
      「奈良の大仏様を拝観し」たとか

 はっきりした物が 目の前にあれば、すぐにそこから何となく 「思いが巡ってゆく」 となりますが、

 行っては見たけど ビルだけだった、 とか 山だけだった
となると、考えてしまうよね。

 都市計画や自然の変遷などで、コロリと模様が変わってしまう
ことも考えなくてはならないし。

 明石郡衙(あかしぐんが)
 奈良時代から平安時代にかけての「郡役所
」 

 が、この辺りにあったと ある案内書で見たものだから
出かけたのですが
 


  〔誓仞鄂袈鳴填兇らの風景

明石川新玉津橋からの風景



 ◆新玉津橋西詰から 西方向北側

同西詰から西北半


 ここは、大型店舗の商業地域
 問題はこの南側
 この位置からすぐ西南は、兵庫県立明石西公園
 その西隣に、神戸市建設局西水環境センターがあり
そこに 「明石郡衙」が在ったとされている。


  明石西公園の中から 後の建物はすべて西水環境センター
 明石西公園から水環境センター
 

 ぁ\梢經超センター
   ここの構内は随分広い。

西水環境センター


 ここが建設される前 昭和51年(1,976年)から昭和55年にかけて、神戸市が依頼して遺跡調査が行われました。
 
 掘っ立て柱の建物郡が、大溝を挟んで多数発掘され、住居、倉庫
が 奈良時代〜平安時代と推定されることから、「明石郡衙」であろうと確定されるに至ったとのことです。

 隣接の明石市区域も 昭和56年から続いて調査されました。


 調査時の写真
 (後刻 吉田郷土館で頂いた資料をコピーしたもの)

吉田南遺跡調査時写真

 古代 稲作文化が西南方から移入して来たころ、明石平野は本土では、九州の次いで 最も早く定着し 邑邑が発達したのでは
ないかと言われている。

 すべての川筋で、遺跡が限りなく見つかるのですと言う。

 


 ァ〃,知て柱の あなの位置を標示したもの
   西水環境センターの西側の一角に 「保存区域」 が
   設けられてあり、(遺跡公園)
   現地ではこれだけが目に見えるものとして残されている。

柱の竪穴跡表示

 
 ここには、このような案内板も掲示されている。

配置図案内板


 ちょっと楽しいではありませんか?
 
 それでは、今日撮った写真はどこで撮ったのだろう?と思い
つつ、勝手ながらこんな書込みをしてみました。

書込み
 

 なお、出土品に関しては、ここからやく1KMほど西北の
 「吉田郷土館」に一部展示されており、 多くは
 「神戸市埋蔵文化センター」(地下鉄西神中央駅南約600M)
 に展示されています。


 
  




     
      

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学校給食の思い出 00:03
 貴方はどのメニューのお馴染みさんですか?

 学校給食 食べましたか?

 三宮の地下通路を歩いていたら、両側に沢山の展示物が
ある中に、「神戸市;学校給食の歴史」と言う面白いのが有りました。

 私は、国民学校(小学校)の1〜2年生の時は、生徒の数が
多すぎて2部学級(午前行きと午後行きの日が一日交替で有った)
だったので、学校給食は無かったと記憶しています。
 ですが、3〜4年生になってから、戦争が激しくなって、縁故疎開で
小野市の田舎の学校へ転校するまでの、1年半ほどの間、だんだん
酷くなって行く途中の学校給食を、心待ちしながら食べた思い出
が残っています。

こんな展示を見たとたんに、アーッと思い出したような次第です。
貴方は如何?


飛び飛びにハショッテ、時代を追ってみましょう。



 大正12年
中々結構なものに感じます


height="395" alt="大正12" class="pict" />


 昭和2年
健康食で良さそう



昭和2


 昭和17年
 私の時代ですね。こんなのとか、コッペパンと脱脂牛乳とか、
 豆ご飯に味噌汁とかは、ごくごくたんまに有って。


昭和17


  昭和20年 戦争が終わった年

昭和20


 昭和25年 少し良くなって来たね

しょうわ25


 ちょっと間が飛んで 昭和39年

昭和39


 昭和44年
 おいしそう、私もほしい


昭和44


 昭和49年


昭和49


 昭和57年
 おしゃれなデザートも付きかけたのですね


昭和57


 平成19年

平成19年


 平成20年
 朝食でも、昼食でも、私もこんなのが好い


平成20年


 如何でしたか?


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好奇心起こるシリーズ;大輪田泊りと未完の和田の京 21:42

好奇心が失せれば俺もお終いか!?
年齢を数えたくないゴマメの歯軋り. 講演を聴きに行く。


「大輪田泊と未完の都」


この場合の「都」は、平家の清盛が執心を燃やした「和田の京」(福原京)
を指しています。平家が都を追われ、西国へ落ちた時点で、進展中断。
になったと考えられているのですが、その内容は、よくは解っていません。

埋蔵遺跡を掘り出して、いろいろ考証してしていると、歴史の文献と
照らし合わせて、数々の推定が立証されて行くと言う話。

画像が少ないですが、これは現清盛塚所在地の南西近く(芦原通1丁目)
の出土品で、「須恵器と緑彩陶器」。右中が緑彩陶器片他は須恵器。



須恵器;緑彩陶器

このパターンの須恵器は、奈良時代から平安初期のもので、
ここにだけ発見されて、他の場所に今のところ例が無いので、
ここに「大輪田の泊」が有ったのではないか、との推定。
ここでは、船を引き入れたと考えられる溝が発見されている。



貴族邸宅の池の遺構;投影画面撮影
(上祇園町、平安末期,池が三層出た由,かわらけ{酒器}多数出土)



上祇園町邸宅池遺構

「雪の御所」の右(東)の位置に当たるので、
相当高位に当たる邸宅と考えられている。
その時時により、清盛、重盛、後白河法皇など。

大和田宮(福原宮)の内裏の位置は、現在神戸大学付属病院の有る
高台位置(西に対して)がそうであろうと、ほぼ断定的に考えられて、
居るようです。 遺跡の根拠も伴っている、とのことでした。

源平合戦の後にも、それを述べる文献があるとのこと。
私にとって、好奇心を満足させ、なお掻き立てる講演でした。


講演の画像が少ないので、神戸市立埋蔵文化財センターの
写真など若干。中と、外(西神中央公園)の余分の映像。
神戸市内で発掘された文化財が、沢山展示されている。

ぞう


ぞう


展示品(土器など)

土器


展示品(色々あるので)

鏡


外の西神中央公園は、展示(複製品)がいっぱい

人型埴輪


人型葉庭


馬型埴輪


銅鐸


銅鐸

講演では、その他「和田の京(福原宮)」の内裏跡(神戸大学付属病院の所)
とか、条里制の事まで有ったのですが、未完成、不確定のままです。
また、カメラ散歩でうろうろする つもりです。



      締め切り


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